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 3月4日(月)

マルコによる福音書10章35-45節より


ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出てイエスに言った。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」イエスが、「何をしてほしいのか」と言われると、二人は言った。「栄光をお受けになるとき、私どもの一人を先生の右に、一人を左に座らせてください。」イエスは言われた「あなたがたは、自分が何を願っているのか、わかっていない。この私が飲む杯を飲み、この私が受ける洗礼を受けることができるか。」


「私たちが願っていることを、私たちの望んでいる通りにしてください」とは、なんと身勝手な、幼い子供のような素朴な願い方です。信頼しきっているからこその物いいかとも思います。あるいは、主イエスへの親しみが、空回りしてイエスを巧みに操って、自分たちの利益を得たいという幼稚な策略でしょうか。

主イエスも、実際に彼らを嘆いてはいません。退けず、『何をして欲しいのか』と問い返されます。察するのではなく、親が子供を育て諭すように、はっきりと、言葉にして言わせます。


主イエスの生涯は、人に仕え尽くし、死こそが他者の贖いの出来事でありました。ご自身の命を身代金として捧げ、多くの人を、罪の縄目から解放なさいます。


彼らの願いを聞いて、主イエスは明確に訂正なさいます。『あなたたちは自分が何を求めているのかわかっていない。私が飲む杯を飲むことができるか』と問いかけます。二人は『できます』と力強く答えます。主イエスは、この望みを持った弟子を、否定なさいません。受け止めながら、訂正なさる。課題はこれからのこと、あなたがたは生涯を通して、確かに、この杯をあなたがたの願い通り、受け続けることになる、と同意し、肯定なさいます。弟子の意思を確認した上で、主イエスは招いておられるのです。

然し、私の右左に座ることを決めるのは、私ではない!ときっぱり、ご自身の限界を正直におっしゃる。主イエスは弟子の願いを、どこまでも正直に受け止め、誠実に対応なさいます。神に従うとは、際限のない力を持つことではありません。あなたたちの願いが実現するかどうかはわからない。それは備えられた人のものだからです。

主イエスは『私の願いではなく、父なる神の御心が行われますようにと』祈られるお方です。