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  3月16日(土) マルコによる福音書13章28-36節より 「いちじくの木から、たとえを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が出ると、夏の近いことが分かる。それと同じように、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。よく言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。天地は滅びるが、私の言葉は決して滅びない。その日、その時は、誰も知らない。天使たちも子も知らないも。父だけがご存じである。」 マルコ13章は、大きな苦難が予告される、何か理解を超えた部分です。が、上の部分から、私はある讃美歌を連想します。それはかわいい讃美歌です。 讃美歌21-575 1 球根の中には 花が秘められ、    さなぎの中から いのちはばたく。   寒い冬の中 春はめざめる。   その日、その時を ただ 神が知る。 2 沈黙はやがて 歌に変えられ、   深い闇の中 夜明け近づく。   過ぎ去った時が、未来を拓く。   その日、その時を ただ神が知る。 3 いのちの終わりは いのちの始め。   恐れは信仰に、死は復活に、   ついに変えられる 永遠の朝。   その日、その時を ただ神が知る。 久美愛教会は、受難節の始まりから、毎週、この歌を歌っています。 そして久美愛教会は牧師の交代時期を迎えようとしていますが、新しい先生の着任を待って、秋に植えたチューリップが背を伸ばしてきました。牧師館の庭で、新しい先生着任を待っています。
3月8日(金)   マルコによる福音書11章20-26節より 「神を信じなさい。よく言っておく。誰でもこの山に向かって『動いて、海に入れ』と言い、心の中で少しも疑わず、言った通りになると信じるならば、その通りになる。だから、言っておく。祈り求めるものはすべて、すでに得られたと信じなさいよそうすれば、その通りになる。また、立って祈るとき、誰かに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさいよそうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの過ちを赦してくださる。」   不可能と思えることを、信じ抜けとは、難しいとずっと思って来ました。  今朝気づいたことですが 祈り求めるとは、恨みから解き放たれていることと、セットになっていたのですね。誰にも、もはや恨みのない状態になっていることが、前段階です。それなら、トライする可能性が見えて来ます。と言うか、祈りの道筋を、教えていただいたと思います。  辛い世の中ですけれど、わだかまりなく、一日を過ごせれば、きっと、神様に祈る日々は幸せだと思います。良き週末をお過ごしくださいませ。
  3月5日 マルコによる福音書11章1-14節   「ホサナ。 主の名によって来られる方に    祝福があるように。 我らの父ダビデの来るべき国に    祝福があるように。   いと高き所にホサナ。」 こうして、イエスはエルサレムについて、神殿内に入られた。そして、周囲を一瞥したあと、既に夕方になったので、十二人を連れてベタニアへ出て行かれた。   私たちの主イエスのエルサレム入場の場面です。 小さな子ろばが、恥ずかしそうに、ぽくぽくと、また誇らしく、ぽくぽくと、初めて人を背中に乗せて、周囲の歓声を聴きながら歩いています。 晴れがましいような、嬉しいような、そして恥ずかしいような、…神様に用いられるということはこんな感じでしょうか。祭りのような神殿入場は、もう夕方、弟子たちは主イエスと共にベタニアへと戻ります。子ろばももとに所に返してもらいました。  小さな動物も、この時、託されたパートを担いました。主イエスの招きです。私たちすべてが招かれています。用いていただきましょう。    3月末で、転任になります。埼玉県から、山梨県に移ります。 久美愛教会のホームページ「日毎の糧は」3月で終わります。 そこで、新しい『Yōshiko Suzuki's Daily Meditation』を公開し始めましので、どうぞ探しておいでくださいませ。
  3月4日(月) マルコによる福音書10章35-45節より ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出てイエスに言った。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」イエスが、「何をしてほしいのか」と言われると、二人は言った。「栄光をお受けになるとき、私どもの一人を先生の右に、一人を左に座らせてください。」イエスは言われた「あなたがたは、自分が何を願っているのか、わかっていない。この私が飲む杯を飲み、この私が受ける洗礼を受けることができるか。」 「私たちが願っていることを、私たちの望んでいる通りにしてください」とは、なんと身勝手な、幼い子供のような素朴な願い方です。信頼しきっているからこその物いいかとも思います。あるいは、主イエスへの親しみが、空回りしてイエスを巧みに操って、自分たちの利益を得たいという幼稚な策略でしょうか。 主イエスも、実際に彼らを嘆いてはいません。退けず、『何をして欲しいのか』と問い返されます。察するのではなく、親が子供を育て諭すように、はっきりと、言葉にして言わせます。 主イエスの生涯は、人に仕え尽くし、死こそが他者の贖いの出来事でありました。ご自身の命を身代金として捧げ、多くの人を、罪の縄目から解放なさいます。 彼らの願いを聞いて、主イエスは明確に訂正なさいます。『あなたたちは自分が何を求めているのかわかっていない。私が飲む杯を飲むことができるか』と問いかけます。二人は『できます』と力強く答えます。主イエスは、この望みを持った弟子を、否定なさいません。受け止めながら、訂正なさる。課題はこれからのこと、あなたがたは生涯を通して、確かに、この杯をあなたがたの願い通り、受け続けることになる、と同意し、肯定なさいます。弟子の意思を確認した上で、主イエスは招いておられるのです。 然し、私の右左に座ることを決めるのは、私ではない!ときっぱり、ご自身の限界を正直におっしゃる。主イエスは弟子の願いを、どこまでも正直に受け止め、誠実に対応なさいます。 神に従うとは、際限のない力を持つことではありません。 あなたたちの願いが実現するかどうかはわからない。それは備えられた人のものだからです。 主イエスは『私の願いではなく、父なる神の御心が行われますようにと』祈られるお方です。
  2月29日(水) マルコによる福音書10章1-12より ・・・人々が近寄って来て「夫が妻を離縁することは許されている でしょうか」と尋ねた。・・・イエスは「 モーセはあなたがたに何と命じたか」と問い返された。「モーセは 離縁状を書いて離縁することを許しました」と言った。イエスは言 われた。「あなたがたの心がかたくななので、モーセはこのような 戒めを書いたのだ。しかし、天地創造の初めから、 神は男と女とにお造りになった。こういうわけで、 人は父母を離れて妻と結ばれ、二人は一体となる。だから、 もはや二人ではなく、一体である。  従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならな い。」  十字架を目指して進んで行かれる主イエスは、人の罪ということを 教えられます。  どうして、夫婦が新鮮な喜びと尊敬を維持することが難しいのか。 他の人とやり直したいと願うのか。 一番近い関係を愛することが、 最高に試練を味わうものです。人が自らの罪と向き合う場です。 もはや二人、ではなく、一体です。 一体の罪を、どのように乗り越えてゆくのか、それがその夫婦の、課 題です。  だから、その課題と取り組み続けるためにも、 結び合わせくださったものを、 神も 、離してはならないと、 わたしは願います。